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社会は個人を尊重するための強力なツール(って言えるように、ミンナでしていこうよ)

 取り上げようかどうしようか迷ったのだけれど、見つけちゃった以上はちょっとだけ言及。

Narrさんのエントリ。
http://h.hatena.ne.jp/Narr/9236553911354961996?sid=38335b689e1cf401

poohさんやハブハンさんのところを読んでて感じたことを書いたわけなんだけど、お二人ともというか、どっちのブログの常連さんの人たちも「社会的な個人」を念頭に置いて考えてる人が殆どな気がする。

(中略)

 でも世の中はそうじゃなくなってきてるみたいで、私にとっては「社会がいちいち尊重なんてできない私だけの感情」であっても、ある種の人たちにとっては「『わたしの気持ち』は他人には理解できないし、決して否定されることもないけれど、社会が尊重して配慮する義務があるのだ」になってるみたいで。

 そういう人たちの感覚は、poohさんもハブハンさんも、よくわかんないんじゃないだろか。私はpoohさんとは少し話をしただけだし、ハブハンさんとは面識が全くないわけだけど、普通の「社会的な個人」というものを理解できてる人には、逆に、「自己」で生きてる人のことは理解できないと思う。

 よく分からない? うん,少なくとも私にはよく分からないです。

 「社会的な個人」と「『自己』で生きている人」という書き方をすると、なんか両者が相反するような印象を受けるのだけれど、私の中では「社会」と「自己」は相反するものでは全くなくて、だから分からないのだと思います。

 主意が掴みきれていないのかも知れないのだけれど、多分「社会」を尊重するか「個人」を尊重するか、という論点なのかな。だとすると私の答えは「個人を尊重する社会」を尊重する、となりますw

 私の書く文章からはうまく伝わっていないのかも知れないのだけれど、私は個人主義的傾向の強い人間ですし、個人の権利・自由を極めて重要視しています。自分の権利、自由も含めて。
 そして個人の権利、自由を尊重するうえで最も強力なツールは(成熟した)社会、だと思っています(※1)。

 だから、私の考える個人の権利・自由って言うのは、社会が十全に持続出来る範囲での権利・自由なんですよね。社会が維持されている状態と、崩壊した状態とでは、前者のほうが個人の権利・自由がより強く担保されるからです。
 だから個人を最大限尊重するとしても、無制限に尊重することはありえない。それは結局のところ個人が尊重されない状態を生み出すだけだから。

 この考え方が私のすべて、ではありませんけれど、あえて「社会」と「個人」の関係に絞り込んで話をするなら、こういう考え方になります。だから「社会」よりも「個人」を尊重するっていうのは、やっぱり「分からない」と言うことになっちゃうんです。「厳冬の孤立した一軒家で、家の柱を削って燃やして暖をとる」行為、に見えてしまいます。

 それとも、「自己」という言葉を「個人」に拡張したらまずいのかな。他の人なんか知ったこっちゃない、自分自身だけ、っていう意味?
 だとすると・・・うーん、ますます分からなくなっちゃいます(^-^; それって、どうやったら正当化できるのかしら。

 これが理解できるようになったら、私の視界ももうちょっと広がるのかなあ。

<注釈>
※1
 もちろん社会が個人の自由と権利を著しく抑圧する場合もありうるわけで、個人が尊重される社会を強く望むヒトは、むしろより緊密に社会にコミットする必要がある、と私なんかは思うのです。

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コメント

ちょっとちゃんと考えがまとまってないんですけど、と言い訳をしておいて。

個人が個人として振る舞い得る社会の現出は、すごくハードルの高いことだと思うんです。極論すれば本来、個人が個人として十全に振る舞うと、多分殺すか殺されるか、になってしまう(これが比喩に終わる場合も、具体的な事象になる場合もあるでしょう)。
殺さない、殺されないと云う環境が社会だとすれば、そこにまず食い違い、と云うか調整の必要が生じます。そこをまず引き受けて、リアルに自分に引きつけて考えると云うこと、社会の中で個人として振る舞うことの前提に置かれるべき、と考えています。

投稿: pooh | 2009年12月22日 (火) 07時53分

言及内容とはずれた発言で申し訳ないのですが、私はNarrさんの文章を読んだ後は大概、何かを揺さぶられるような気持ちになるのです。その原因がよく分かりませんが。
分かって居る筈の事でも否定され続けてそれでも自信を持ち続けられますか?そう問われた現状の私は否と謂うでしょう。考えることをやめてしまうと思います。

投稿: どらねこ | 2009年12月22日 (火) 08時17分

poohさん、こんにちは。

 ネット辞書で「社会」を検索すると「人間の共同生活の総称。また、広く、人間の集団としての営みや組織的な営みをいう」(大辞泉)と出てきます。
 私のエントリ中の「社会」を「人間の共同生活」にパラフレーズしてみると、「私の考える個人の権利・自由って言うのは、『人間の共同生活』が十全に持続出来る範囲での権利・自由」となり、これはもう、ワタシ的には非常にシックリくるんです。当然殺し合いにもならない範囲、と言うことになります。

 そもそも、自分って、他人から見たときには「社会」の一部なんですよね。だから「自己の重視」が「社会の軽視」を含むのであれば、社会(他人)からは、自己を軽視されるコトを覚悟しなくちゃならない、社会に対して「尊重してくれ」なんて言えなくなっちゃうような気がします。

 「自己と社会を同程度に尊重する」だと、「社会的な個人」との区別がなくなっちゃいそうだし、「自分の自己を尊重するように社会には求めるけど、他人の自己は軽視する」だと、単なるワガママちゃんにしか見えない・・・

 結局、まだ私は「『自己』で生きる」っていう言葉の意味を理解しきれていないようです(^-^;

投稿: ハブハン | 2009年12月22日 (火) 21時40分

どらねこさん、こんにちは。

 Narrさんに限らず、ブクマコメを見たときに、私はよくモヤモヤした気持ちになります(今回はブクマコメではないですが)。

「そこ! そこ、もうちょっと詳しくっ!!」ってトコロで終わってるので(^-^;

 ポジティブな意見も、ネガティブな意見も、レスポンスを返せるほどの情報量を持っていないんですよね。前者には「もしかして誤解されているんじゃなかろうか」という不安をいだきますし、後者は自分の考えの修正にもつながらず、かと言って反論もできず、「そうですか」としか言えない。モヤモヤモヤモヤ・・・

>分かって居る筈の事でも否定され続けてそれでも自信を持ち続けられますか?そう問われた現状の私は否と謂うでしょう。考えることをやめてしまうと思います。

 ココだけの話ですが、私はエントリを書き上げてから、実際にアップするまで、数時間迷い続けるコトが良くあります(^-^; 「保存」ボタンをクリックするだけの状態になってから、そのままブラウザを閉じてしまうことも。
 今回のエントリも、1回まるごと書き直して、そのあと半分以下まで削って、さらに30分迷いました(笑)

 自信はハナから無いです。否定されるまでもなく(^-^; でも、考え続けることの勇気とキッカケは色々な方から貰っています。
 どらねこさんからも、貰っています。
 私のブログも、ほんのチビッとでもどらねこさんの考えるキッカケになれたら嬉しいな。まだまだだけど、頑張ります。

投稿: ハブハン | 2009年12月22日 (火) 22時20分

こんにちは。

人間てなんだ社会ってなんだ自由って何だの話(ザックリしすぎ)は、
にゃーにゃー謂っている方のところで延々と色々切り口を変えながらも
バトル(家主の罵倒芸のせいもあってか皆さんエネルギッシュ)が継続していますよね。
お勉強が足りない私には正直フォローしきれないところがありますが
たらーと眺めているだけでも、コトは簡単じゃないんだな、程度のことは理解できます。

文明を享受して生きている以上、「社会」と「個人」は不可分でしょう。
そこをつっぱねるには、極端な話ロビンソン・クルーソーになるしかない。
でもだからといって「社会的な個人」として生きるかどうかは、個人の選択肢の一つで
その中に「自己」で生きることをむりくり混ぜ込む必要はないんじゃないかなぁ…と思う(自信ナシ)。
「社会的な個人」を認めることで、「自己」の中に何かが無条件に介入することにはならない、
というかならない社会じゃないとダメだと思うんですけど、違うかな?うむむむ……。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年12月23日 (水) 11時55分

うさぎ林檎さん、こんにちは。

 私がかなり単純素朴に「社会」「個人」という言葉を使っているのは間違いありません。だから、自分の認識を更新していく必要・機会はあるだろうと思ってはいるんですよね。
 ただ、今の私の単純素朴な認識は、例外や境界事例に対してきちんと判断できる基準にはならないかも知れないけれど、大半の事例にはそれでも明確に答えを出せるのかな、と思っていたりもします。

 Narrさんの論点は、私は「大半」に属するものだと思っているのですが、分かっていない部分があるのであれば、それは認識しておきたいところ。
 もっとも、今はまだナニが分かっていないのかも分かっていないのですけど(^-^;

 地下に眠るMさん(と言うよりも「地下猫さん」の方が通りが良いですね)のトコロは、ある意味気楽に楽しませていただいています。一部のヒトを除いて、雲の上の話なので、賛成反対どちらの意見を聞いても感心するばかりです。

 と言うわけで、単純素朴なまま続けさせていただきますが、

>「社会的な個人」を認めることで、「自己」の中に何かが無条件に介入することにはならない、
というかならない社会じゃないとダメだと思うんですけど、違うかな?うむむむ……。

 私は逆に、社会から完全に切り離された「自己」と言うモノを、全く想定できないでいます。肉体的には個人と社会の境界は皮膚の皮一枚なんですが、人格としての個人は、社会との関連性を抜きにして成立も表現もし得ないものだと思っているので。
 「他人(社会)に対する介入、他人(社会)からされる介入に対するリアクションこそが、あなたの自己なんじゃないの?」って感じかな。
 まあ、うさぎ林檎さんがおっしゃる、
>「社会」と「個人」は不可分でしょう
ってコトなんですけど、介入を拒絶する自己って、私には矛盾に感じられるんですよね。

 ムカシ、こんな話を聞いたコトがあります(どこで聞いたんだか、忘れちゃいました)。

 トリが空を飛びながら、「ああ、この空気さえ無ければ、抵抗がなくなってもっと速く飛べるのに!」

投稿: ハブハン | 2009年12月23日 (水) 19時45分

こんばんは。あと、ちょっと気が早いけどメリークリスマス!

エントリーにはほぼ同意と言うことを前提に。まとまりがなくてすいません。

笠井潔の著作に「権力は魂の問題に口を挟むべきではない」という一節がありまして。魂というのはこの場合「純私的な領域」くらいの意味で、趣味や嗜好、思想といった基本的に人それぞれの、それこそ「他人には理解できないし、決して否定されることもない」分かち合えない部分に関して、公的に干渉すべきではない、という主張です。
sk44@地を這う難破船さん言うところの寝室の問題や、にゃーにゃーいってる所の愚行権の問題にも重なりますが、時に内心を忖度されることでさえ暴力として機能してしまう事を鑑みると、妥当な主張であるように思います。
Narrさんが言う「自己」な人は、己の感情という本来聖域の最たる部分を権力に担保している様に見えます。下品な言い方をすると己の感情のケツを政府に持たせるわけで、見方を変えれば要するに魂を委ねているに等しい。ただの我が儘ならまだしもなんですが、全体主義に陥りかねない危うさを感じます。

もっとも、私的には現状そこまで危機感は感じませんが。そんな流れにありますかね?どうだろ。

投稿: みつどん | 2009年12月23日 (水) 20時39分

みつどんさん、こんばんは。

 メリー・クリスマス! ふふ、ちょと早すぎですね。
 明日はお忙しいでしょうからw 後日のクリスマスレポートを楽しみにしています。

 いただいたコメントについては、すみません、簡単にお答えできない部分を含んでますので、後日お返事させてください。いや、ついさっきお酒を入れてしまったので(^-^;

 ベルギービール(←どらねこさんの影響)を飲みながら、M-1グランプリの録画を見てました。いやー、毎年面白いなあ。でも再挑戦はナシ! 若手のための企画なんでしょ? モンスターエンジンなんか、あんなオモロイのに・・・ あ、すみません、ただのグチでした・・・

投稿: ハブハン | 2009年12月23日 (水) 22時13分

 みつどんさん、改めましてこんにちは。

>「権力は魂の問題に口を挟むべきではない」

 お酒が抜けてからw 考えてみたのですが、この命題への評価、なかなか難しいですね(^-^; 「魂の問題」という言葉にどんな意味を持たせるかによるんでしょうけれど。

>Narrさんが言う「自己」な人は、己の感情という本来聖域の最たる部分を権力に担保している様に見えます。

 なるほどそうか、「尊重する」という表現が、周囲からの積極的な支持、積極的な保護を求めているような印象をあたえる部分はありますね。「社会を尊重する」場合にはもちろんそういう意味を含んでいるんですけど、同じ意味で「個人を尊重する」と表現すると、やや不適当かも知れません。

 ニセ科学批判は文字通り批判活動ですが、物理的強制的に相手の行動を阻止するモノではないし、そもそもそれを指向していません。だから「言ってるだけ」と揶揄されることもありますが、一方でそれ以上の強制力を発揮することを自制している面もあるわけで、それはまさしく個人(の自由)を尊重してるからですよねえ。
 一方で他人に善意を押し付けたり、自分の子供に対する医療をネグレクトしたり、というのは、ちっとも個を尊重しているようには見えない(^-^;
 うーん・・・エントリ中ではごく自然に「自己」を「個人」に置き換えちゃったのですが、コメント欄でみなさんとやり取りしているうちに、やっぱり置き換えしたらいけなかったような気がしてきました。「(一般的な)個人なんかどうでもいいから(わたしの)自己を尊重しろ」という意味なのかなあ。

 もしそうだとすると、マイノリティのうちは「自己を尊重しろ」だけど、マジョリティになった途端に「(個を殺して)社会を尊重しろ」にシフトしそうで、逆の意味でも「全体主義に陥りかねない危うさを感じ」ますね。

>私的には現状そこまで危機感は感じませんが。そんな流れにありますかね?どうだろ。

 私も、いま危機的状況にある、と言う認識ではないのですが、これって多分、みんなが「何とかしなきゃ」ってホンキで思い始める頃には手遅れになっている可能性があるんだろうな、とも思います。目に見えるわずかな領域が「ヤバイッ」になる時には、水面下の膨大な領域がとっくに「ヤバイッ」になっていそうで。特に子供への影響、そして子供への影響力を持つママさんたちへの浸透はやっぱりコワいです。

投稿: ハブハン | 2009年12月26日 (土) 22時44分

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