プラセボ効果(だけ)がある代替医療を許容するべきか
まだ私の中で固まっていない部分が大きいのですけど、固まっていない部分も含めて一度コトバにしておこうと思います。
最初に大まかにまとめておくと、こんな感じ。
「限られた条件下で、代替医療の利用を許容するべき場合もある」
これは、代替医療を利用した方が、代替医療を利用しないよりも予後が良好であるケースを想定しうる、と考えているからです。
その辺のことを書いてみます。
以下の文章では、次の意味で各用語を用います。
「プラセボ効果」
医療行為と「偽薬」とで二重盲検を行ったときに共通に得られる、無治療群と比較して病状を改善する効果。
「実質的効果」
医療行為と「偽薬」とで二重盲検を行ったときに、医療行為には見られ、偽薬には見られない、病状を改善する効果。
「総合的効果」
プラセボ効果と実質的効果を合わせた、病状を改善する効果。
「偽薬」
医療行為と区別がつかないが、患者の病状を改善する実質的効果を含まないことが明らかである行為。
投薬以外の医療行為も含めて「プラセボ効果」「偽薬」等の表現を用います。
代替医療の行為も「医療行為」と表記しています。
副作用、ノセボ効果(負のプラセボ効果)等は抜きにして考えます(大枠は変わらないので)。
代替医療は、通常医療で得られる効果と同様(同等)の効果を標榜しているモノを主に想定しています。痛みや吐き気の軽減など、通常医療の補完的な効果を目的とする代替医療はやや対象から外れます。
<通常医療と代替医療の実質的効果の大きさ>
プラセボ効果を抜きにして、通常医療と代替医療の実質的な効果を比べると、多分こんな感じ(単なるイメージで、定量的な意味はありません)。
もちろん、例外はあるだろうと思います。数多の代替医療の中には、通常医療にせまる効果を持つモノが含まれているかもしれませんし、通常医療を凌駕するモノもないとは限りません。
有望そうなものは一通りチェックされてしまって、今後目覚しい効果を持つ代替医療が発見される可能性は低いかも知んないけど、ゼロではないですよね(※1)。
で、そういう例外を除き、実質的効果については次のように言えます。
「通常医療に比較して、代替医療の実質的効果は小さい、あるいは無い」
<通常医療と代替医療の「プラセボ効果」の大きさ>
一方、プラセボ効果となると、話は変わってきます。なんせプラセボ(偽薬)効果、ですから(^-^;
名前から誤解しているヒトもいらっしゃるかも知れませんが、通常医療でもプラセボ効果は表れます。だからこそ、条件を揃えて医療行為と偽薬とを比較したときに、その差分を「実質的効果」として評価できるわけですね。
他の要素をすべて統一したのであれば、通常医療と代替医療のプラセボ効果は同等となるでしょう。そうでない場合には、両者に違いが生まれるコトも考えられます。
代替医療に信頼を寄せ、通常医療に不信を持っている人に、代替医療を「代替医療」として処方すれば、通常医療よりも大きなプラセボ効果が得られる事になるでしょう。こんな感じかな。
<代替医療のほうが総合的な効果が高いケース>
じゃあ、プラセボ効果を考え合わせた場合、通常医療よりも代替医療の方が総合の効果が大きくなるコトはありうるのでしょうか。そう、こんな感じで。
私はこれは、ありうると思っています(※2)。と言っても、実際には極めてマレだろうとも思いますが。もしあるとしたら、それは次のような条件が揃ったとき、かな。
(1)通常医療の効果自体が大きくない(病状が非常に軽い、有効な治療法が確立されていないなど)
(2)患者が代替医療に対して絶大な信頼を寄せている
(3)患者が通常医療に対して大きな不信感をいだいている
(4)プラセボ効果の影響が表れやすい病気・病状である
<代替医療によるその他の有益な効果>
実質的効果にしてもプラセボ効果にしても、病状の改善が評価の基準になりますが、実際のところ医療に求められているのはそれだけではありませんよね(※3)。
例えば、病気の不安に苛まれる患者が、代替医療によって心の平穏を得られるのであれば、その恩恵を無下にすることはありません。
人によっては宗教が心の支えになるだろうし、専門家のカウンセリングが有効な場合もあるでしょう。
そして、「代替医療」がその役割を負う場合も有るのでしょう。
<代替医療を選択するべきケースはありうるか>
ある個人に関して、上記のような理由から、代替医療を選択した方が通常医療を選択するよりも病状が改善され、又はその他の利益が得られる可能性が高い場合、「患者の回復」を第一義に置くなら、代替医療を選択する方がベターなケースも想定できます。実際に運用しようと思ったら、プラセボ効果に対する横断的定量的な研究がもっと必要な気はしますけど(※4)。
<そうは言っても・・・>
そもそも偏った情報、誤った情報に曝されているから、通常医療よりも代替医療の方が大きなプラセボ効果が得られる、などという状態になってしまうわけで、これは本来的に望ましいモノではありません。
そして、ある患者に代替医療が適用されたコトをもって、代替医療への信頼、通常医療への不信をさらに広げるような事態が発生するのは避けなければなりません。
本来、最も実質的効果が大きい医療行為が、最も大きなプラセボ効果を得られるべきであり、そのための啓蒙・広報・カウンセリングなどとセットになって初めて、代替医療を(キチンとしたコントロールのもとで)許容する素地が生まれるのだと思います。
プラセボ効果が相乗的に得られるモノかどうかは分かりませんが、もし通常医療単独より、通常医療+代替医療の方がいくばくかでも高い効果、あるいは少なくとも患者の安寧を見込めるのであれば、ことさらに代替医療を批判する理由はないんです。でも残念ながら、そうは言ってられない現実があります。
<代替医療を許容する条件>
ここまで挙げてきたポイントを組み合わせた私の考え方は、次のようになります。
(1)ごく軽い症状、または通常医療では改善が見込めない症状に対し、
(2)患者が代替医療に絶大な信頼を置いている、かつ/あるいは現代医療に極度の不信をいだいているなら、
(3)患者本人の希望があった場合に
(4)適切なコントロールのもと
(5)プラセボ効果を期待して代替医療を利用しても良い
ただし、
(6)上記(1)の条件が満たされない場合は、(代替医療のプラセボ効果が相殺されるとしても)通常医療との併用が条件となる。
(7)個人が代替医療を選択したこと及びその結果が、社会的な影響力を持たないよう配慮する。具体的には、業者の宣伝に利用されたり、通常医療の攻撃材料になったり、クチコミのネタ元になったりしないような手立てを講じる。
うわっ! 自分で書いといてナンだけど、チョー無理じゃんっ!
こんな制約条件を順守できるんなら、ハナから問題になったりしないよねえ・・・
<終わりに>
患者自身が正確に情報を把握した上であれば、代替医療を選択するコトは、あるいは通常医療を拒否するコトですら、最終的には本人の意思として尊重せざるを得ないのかも。
でも、代替医療を選択する人、通常医療を拒否する人の大半は、「助かりたい」からそうしてるんだよね、多分。
病気の不安。
死の恐怖
そういったものから逃れたくて、逃れたくて、回復の可能性を少しでも高めようと思って、やっと希望をツカんだと思ったら、それはワラだった・・・そんなの、悲しすぎると思います。
患者本人の希望を「苦渋の決断」の末に許容するにしても、そういう状態を生み出す原因となった人たち・・・第三者に対して代替医療の幻想を植えつけ、通常医療の不安を煽り立てる人たちは、やはり批判されてしかるべきです。
現在までに得られている根拠に応じた、相応しい節度で利用されること、そして一部の人間・組織の逸脱行為に対し自浄作用を発揮できるような仕組みを持つことを、代替医療の関係者に期待しています。
<注釈>
※1
代替医療を信奉するヒトのほとんど全てが、「自分の信じている○○こそが、まさにその例外なのだ!」と思ってそう。って、当たり前か(^-^;
それが「信奉する」ってコトですもんね。
例外事例(通常医療よりも効果が高い代替医療)が100個に1個あったとして、100人が100人「我こそが!」と思っているなら、99人の「我こそが!」は錯覚なわけです。
あ、「我こそが!」は、好きな言葉に置き換えて構いません。例えば、
「これだけハッキリと自覚できるのだから、効果がないわけはない」とか、
「大勢の人から支持されているんだから、何かしら効果があるのではないか」とか、
「みんな効果を認めているのに、頭の固い学者が確かめもせずに否定しているのだ」とか、
「製薬会社が既得権益を守るためにネガティブキャンペーンを繰り広げているのだ」とか。
※2
この辺、知見の蓄積がありそうな気がして調べたんですが、私には見つけられませんでした。でもやっぱり、ありそうな気がする(^-^;
※3
精神的な安定、ペインコントロール、それらを含め、QOLの維持・向上、などなど・・・。まあ、今はこれらも医療の範疇に入れて考えるのが一般的だと思いますけど。
※4
これも研究されていそう・・・個別の事例としてはそれっぽいのも見つかるんですけど、調査能力不足です。
<04/07追記:ブクマコメに応答>
>ublftboさん(でいいのかな(^-^;
>1)グラフの表現が不明瞭 2)「プラセボ効果」の定義と用法が乖離 3)「プラセボ効果を期待」して代替
医療を選択させる場合、「それ自体」は効かないこと患者に教える、という条件が必要 と感じました。
ありがとうございます。私がモヤモヤしてるのも、そのへんなのかも。いや、もっと根本的に分かっていない部分があって、その一部がご指摘の部分に現れているのかも。
ご指摘いただいた3)について、私は多分、反対なのです。反対なのですけど、「医療」に対してなら、そういう要求をすると思うんです。
じゃあ結局「非医療」としてなら、オマジナイとしてなら許容するというコト?
んー、それもちょっと、私の中では違います。オマジナイなら根拠に基づいた効果を期待したりしないし、そもそも通常医療と競合なんてしない。
医療でもなく、オマジナイでもなく、その他の位置づけで代替医療を捉え、限られた範囲で許容できないのか・・・って、スミマセン、やっぱりまだ固まっていないですね(^-^; むつかしい・・・
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この記事へのコメントは終了しました。





コメント
今日は。
▼引 用▼
>ublftboさん(でいいのかな(^-^;
▲引用終わり▲
えっと、TAKESANでいいっす(笑)
プラセボに関しては、こちらで自分の考えを色々書いているので、よろしければ。
http://seisin-isiki-karada.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=47&summary=on
端的に言えば、医療におけるプラセボの使用の積極的否定です。サイモン・シンらの考えに近いです。仮に使用するにしても……という所についても、新しい方の投稿で書いています。
・用語について
プラセボ効果、の概念が広すぎるように思われます。一般に心理社会的作用とでも呼んだ方が認識しやすい部分まで「プラセボ効果」という語で表現すると、却って判然としない事もあると感じます。
それと関連して、
・グラフの不明瞭さ
「プラセボ効果の比較」のグラフ、これは不適切と思います。そもそもプラセボ反応は、「確かめたいもの以外の条件を揃えた上で起こる反応」の事なので、初めから、ある程度文脈を限定した上での「比較」の論点が必要です。二重盲検で「施術者」もマスクされる事を考えるとそれが了解されます。
従って、「通常医療」と「代替医療」という属性を並べたグラフは、あまり意味をなさないと考えます。
もし心理社会的な作用の効果が大きく安定的に出るのであれば、それは心理療法として有力なものと捉えればいい訳で。EBCP(Evidence Based Clinical Psychology)、ですね。そこに「効かないと判っているものを与える(ここに関連して倫理的議論が起こる)」のが含まれるのを、敢えて「プラセボ効果」と呼ぶ必要性は無いと私は考えています(もっと強く言えば、「呼ぶべきでは無い」 あくまで臨床試験におけるプラセボ対照比較試験などの文脈に限定するべき)。
投稿: TAKESAN | 2010年4月 9日 (金) 13時34分
では心置きなく、TAKESANさんこんにちは(^-^) 他の人が見たときはIDに統一されていた方が分かり易いかなーとか、毎回プチ迷います。
グダグダのエントリに付き合わせてしまってごめんなさい(^-^;
私がフラフラしているトコロは、かなりのレアケースでしか問題にならない部分だとは思いますが、いざ当事者になった場合には、かなりテンパッてしまうトコロでもあり、もうちょっと考えて、意識はしておきたいなあ、と。
>プラセボに関しては、こちらで自分の考えを色々書いているので、よろしければ。
http://seisin-isiki-karada.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=47&summary=on
>端的に言えば、医療におけるプラセボの使用の積極的否定です。サイモン・シンらの考えに近いです。仮に使用するにしても……という所についても、新しい方の投稿で書いています。
ご紹介いただいたページはむかし目を通して、そのときはうまく理解できずに終わったんですが、いま読み返すとそれなりに理解できるようになっています。自分の中で知識の蓄積が進んでいるようで、ちょっと嬉しい♪
リンク先では医師が主体になってプラセボを医療として用いることが主題になっていますね。
私の考えを言うなら、プラセボ効果と実質的効果を同列に見なして、プラセボを医療として施術することには反対です。
私の発言が矛盾しているように見えるとしたら、私の言葉足らずのせいで、エントリの中で使った「代替医療の利用を許容する」と書いた時の主体が不明確でした。利用するのは患者で、許容するのは医師を含む周りの人ですね。
医療が着実な成果を挙げていて、プラセボ効果だけに頼るなんてリスクを増大させる行為でしかない場合には、医療の効果、代替医療の無効果をきちんと説明し、説得するべきだと思います。がんの治療とか。
一方で、プラセボ効果が無視できないほどに通常医療の効果が小さい場合、かつ通常医療よりも代替医療のほうがプラセボ効果を大きく与えられると見込まれる場合(既に書いたように、極めてマレだと思いますが)に、代替医療の無効果を説明するべきかしないべきか、代替医療を医療のシステムの中でコントロールするべきかしないべきか、という辺りを考えています。ここで言う「医療のシステムの中でコントロールする」は、「医療として用いる」とはかなり違う意味を持たせていて、想定しているのは主にモニタリング及び情報管理です。
・・・医療でないモノを医療のシステムがコントロールするって、非現実的かしら(^-^;
>プラセボ効果、の概念が広すぎるように思われます。一般に心理社会的作用とでも呼んだ方が認識しやすい部分まで「プラセボ効果」という語で表現すると、却って判然としない事もあると感じます。
これはご指摘のとおりで、「プラセボ効果」というコトバに、かなり広範なモノを含めて使っています。この点は後述します。
>もし心理社会的な作用の効果が大きく安定的に出るのであれば、それは心理療法として有力なものと捉えればいい訳で。EBCP(Evidence Based Clinical Psychology)、ですね。そこに「効かないと判っているものを与える(ここに関連して倫理的議論が起こる)」のが含まれるのを、敢えて「プラセボ効果」と呼ぶ必要性は無いと私は考えています(もっと強く言えば、「呼ぶべきでは無い」 あくまで臨床試験におけるプラセボ対照比較試験などの文脈に限定するべき)。
うまく読み取れてるかどうかちょっと自信がないですが、プラセボ効果の定義をご主張のように限定した場合、プラセボ効果を期待して施術すること自体不可能、というか、施術し意図した効果が得られるとしたらそれは「プラセボ効果」ではない、という事になりそうですね。
私の文章内の「プラセボ効果」をもうちょっと明確にできないか考えてみました。ホメオパシーを例にします。
A群:被験者がホメオパシーを信じている。カウンセリングを実施。「レメディ」を与える。
B群:被験者がホメオパシーを信じている。カウンセリングを実施しない。「レメディ」を与える。
C群:被験者がホメオパシーを信じている。カウンセリングを実施。「レメディ」を与えない。
D群:被験者がホメオパシーを信じていない。カウンセリングを実施。「レメディ」を与える。
私の文章では、ここでA群とその他の群に効果の差があったとしたら、それも「プラセボ効果」に含めています。
「プラセボ効果」=「偽薬の作用」+「偽薬を要因のひとつに含む交互作用」
というコトですね。
今の時点でこの用法がおかしいと言う認識をあまり持てていないので、もうちょっと調べてみたいと思います。
コトバの定義の正否は別として、この効果、及びこの効果を得るための行為を、私は逆にあんまり医療の範疇(例えば心理療法)で捉えたくないと思っています。
カウンセリングがそれ単独なら療法と見なせるモノだったとしても。
A群に対し、安定的な効果が得られたとしても。
投稿: ハブハン | 2010年4月11日 (日) 14時01分