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科学的であることが正しさを帯びるときもある

 前エントリの続きみたいなものですが、メインテーマから外れるので、分けて書きます(ってか、ワタシ的にはこっちがメインかも)。

 トラックバックをいただいた当ブログのエントリ。
「科学的に正しい」について、もっかい考えてみた」 

 王様は裸だ!Annexさまのエントリ。
「私も「科学的に正しい」について、もっかい考えてみた」

 しかし、今現在「科学的に正しい」を使っている人の多くは、おそらく自分は『科学絶対主義』ではない、と言うだろう(少なくとも表向きは)。

《仮説3 建前に染み出す本音》
 「ニセ科学」を否定する本音としては、「実は科学的でない」コト以上に「科学に反するものは間違っているに決まっている」と思っている。
 しかし、一方で「科学的枠組み」に限界がある事は頭では理解しているし、科学を基準にして正誤を判断して「科学絶対主義」扱いされるのは嫌。
 「科学は正しい」という本音と「科学の枠組みに限界がある」という建前の葛藤の末に、科学の枠組みの中の話だよ、と建前を通しつつ、「正しい」という本音を滑り込ませているのではないだろうか。

 んー、別にタテマエもホンネもなく、「ある局面では科学的であることが正しい」と言ってしまえる私は「科学主義者」ですw 条件つきなので「科学『絶対』主義者か?」と言われると、やっぱり否定するけど。
 あ、ここで言う「正しい」は「科学的に正しい」とは異なります。「社会的に正しい」かな。「科学的な正しさ」とは別に、「科学的であることの正しさ」もあるというのが、ここで書こうと思っていることです。

 「ある局面」ってのは「コミュニティで共有されている、定量化可能な目的を達成するために、コミュニティとしての行動を選択し、実施する局面」です。
 さらに、こう主張することの前提として「定量化可能な目的を達成する上で、科学は最も効果的かつ効率的なツールである」ってのがあります。

 公共の利益のために私たちはそれぞれコストを支払っているんですが、同じコストを掛けるなら、より有効に使うべきだ、そして有効に使うためには科学的手法を採用するのが「社会的に正しい」ってことですね。
 もし科学が最も効果的・効率的なツールではなくなったら、私は「科学主義者」ではなくなるでしょう。それがどんな状況か、ちょっと想像もつかないけど。

 また、この主張は以下のことを含んでいます。

(1)個人の行動に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
 個人が自分のためだけに行う(公共性のない)行動は、目的を達成する上で有効である必要も効率的である必要もない(もちろん、個人がそれを指向しても構わないけど)。
(2)定量化不可能な目的に対しては、科学的であることが正しいとは言えない。
 つーか、いかなる方法でも定量化出来ない目的を達成するための行動はそもそも科学的たりえない。

 たとえばニセ医療が問題になるのは、ニセ医療を採用することが「健康に長生きしたい」という社会共通の目的に反しているからですが、この目的に対するコンセンサスがなければ問題視されなくなります。ってか、医療自体が無用になりますね。

 だから私は、社会のコンセンサスを維持することは大事なことで、ニセ科学を批判することの正当性はこのコンセンサスに基づくものだと思っています。
 「安全な社会で健康に長生き」っていう価値観の共通性がそう簡単に失われるとは思わないけど、時々不安に思わないでもなかったり(^-^;

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ニセ科学考」カテゴリの記事

コメント

 私の場合は、今のところ客観的事実の正否を判断する方法としては、「科学が一番まし」と考えています。「科学の結果は正しい」ではなくて、「一番ましな結論を選択するのが合理的」というところになります。
 価値判断としては「合理的な判断をした方が良い」というものがあります。ここから逆に追っていくと、科学的な正しさを優先する行動になるというわけです。

 もちろん、日常では非合理な判断を下すことも少なくないですけどね。

投稿: lets_skeptic | 2011年1月10日 (月) 10時25分

lets_skepticさん、こんにちは。

 「正しい」というコトバ、私がいままで認識していたよりもはるかに、間違って受け取られる可能性が高いみたいですね。
 どの基準に照らして正しいと言っているのかが混同される、というだけでなく、この言葉自体の問答無用な印象が強いんでしょうか。

 「主張が科学的に正しいかどうか」と、「科学的手法を採用するべきか、するべきで無いのか」の違い・・・うーん。

 お書きいただいた内容については、その通りだと思います。
 そうか、「合理的」とかいう言い方のほうが誤解が少ないのかなあ。

> もちろん、日常では非合理な判断を下すことも少なくないですけどね。

 ふふふ、私は今年のお正月は、初もうでにも行かず、余分なエネルギーも使わず、とても合理的にすごしましたw

投稿: ハブハン | 2011年1月10日 (月) 19時14分

(個人の)行動を「科学的」にからめて判断するのは、違和感があります。
日々の行動を「科学的」に選択しているって人がいるならちょっと怖い。
自分が合理的だと考えて(あるいは無意識に)行動することはあるけど、科学的かどうかは直感的な行動では判断しないよね。(経験的に判断するのが「科学的」になっていることはあるけど。)

「科学的に正しい」は、科学の方法に則ってに判断すると科学的だといえる、という意味だと思うので、「科学的である」でも個人的に違和感はありませんが、(科学主義者ではない人にとって)ちょっと不親切な感じがします。
特に対象がニセ科学の場合とか。
ニセ科学には、「科学的に間違っている」とはっきり強調して伝えるために敢えてそう表現するべきでしょう、きっと。
でも、その人の行動を「間違っている」と糾弾するのは、ちょっと違う気がします、たぶん。
個人の行動を科学的に縛るのは、科学絶対主義者でしょう。(恐ろしい…)

なので、「科学的に正しい」というマントラは、科学主義者が絶対マジョリティになるまで唱えるべきです!(笑)

投稿: トンデモブラウ | 2011年1月11日 (火) 09時05分

トンデモブラウさん、こんにちは。

 エントリでは明示しませんでしたが、例えば趣味なんかは、科学的であることを求められるモノじゃないですよね。ただし、なんらかの目的(「上達したい!」とか)をもって取り組むのであれば、科学的手法を適用することが有効だろう、とは思います。

 それ以外の生活の中で科学的な検討が必要ないと感じるとしたら、社会によってそれがある程度担保されているから、でしょうねえ。

>「科学的に正しい」は、科学の方法に則ってに判断すると科学的だといえる、という意味だと思う

 ・・・まさに、「そうではない」という説明をしていたトコロなので、ショックですw
 私が言ってたのは「科学の方法に則って判断すると『妥当だ』といえる」で、かつ「妥当だ」と「科学的だ」は別モノだ、というコトだったのですが・・・

 でも、複数の人から違った意味で捉えられるということは、やっぱり私の表現自体になんらかの問題があるのだろうと思います。
 なるべく多くの人に誤解なく主意が伝えられるように、頑張ります(^-^;

投稿: ハブハン | 2011年1月11日 (火) 20時00分

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