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ワをかけてガイシュツでつ

 以前エントリを挙げてトラックバックを飛ばしたら、応答をいただきました。

 ブログ 命のデモ行進さまの最初のエントリ

菊池誠は科学者か?①

 それについて書いた私のエントリ

おしなべて「それガイシュツでつ」的な。

 それに対してトラックバックをいただいたエントリ

因習科学信望者への回答①

 「信奉者」じゃなくて「信望者」なのね。
 さいしょ、逐一反論を書いていたんだけど、えーと、結局のところ、言ってることは以下のふたつだけ、ですよね。

(1)「水からの伝言」やマイナスイオンは科学の物差しでは計れない(「科学を超えている」そうな)。
(2)科学は万能ではない

<(1)について>
 「科学を超えている」んなら、それは科学じゃないよね。科学ではないモノが科学と誤認させる要素を持っていたら批判されて当たり前、というトコロには同意してもらっているみたいだけど、じゃあ、現在されている批判には同意してもらってる、ってことでいいのかな?

  ちなみに科学と誤認させる行為というのは「メカニズムは明らかになっていないが事実であることは明らかだ」といったり、科学的な方法論が用いられているようなコトをいったり、科学的に厳密に定義されている用語を別の意味で用い、かつ意味を明確にしなかったり、などという行為です。
 ↑の概要は以下のエントリにまとめてあります。
「そんなつもりはないのに、ニセ科学扱いされちゃう理由」

  科学の物差しを使わなくたって、(ニューエイジサイエンスとやらでも)もちろん全然構わないんだけど、他人、社会から正当に評価してもらおうと思うなら、 科学にかわる物差しをキチンと示す必要があります。それが出来ない限りは「事実であることは明らか」とすら言えない、ってのは、わざわざ説明しなくても分かるよね。
 それでも個人的な信条であるうちはかまわないが、社会的に公表し、流布し、影響を与えようとする行為は批判の対象となりうる、ってのも、いいよね。

<(2)について>
 科学が万能でないのは当たり前ですね。他の、ろくにリスクも明確にできないシロモノよりはマシってだけで。

 逆に私は、限界(適用範囲)やリスクが明らかになっているかどうかを科学とニセ科学とを切り分ける重要の判断基準のひとつと考えています。
 この基準がすべて、ではないのですが、ロクな根拠が示せていないことをして「いまの科学の物差しでは計れないんだ」「科学を超えているんだ」とか言い出すモノは、判断がラクですね。

 もし「水からの伝言」やマイナスイオンが自ら適用範囲やリスクを明示できるなら、ちょっと見直すかも。まあ、そんな機会は訪れないでしょうけど(^-^;


 あとは、本来の主題になっている部分だけでいいかな。

科学者は単純な二分法では答えないんだと。

 したども、まこっちゃんの「科学的な根拠はほぼ無いと言ってよい」「科学的に信頼しうる根拠はない」は明快に二分法だよな~。

 コレはですねえ、「一般に『ニセ科学』と呼ばれているモノは、単純な二分法をほとんど用いることのない科学者でさえ断言しちゃうのをためらわないレベルのシロモノ」と捉えていただくのが正解かと。「マイナスイオン」しかり、「水伝」しかり。

↑非常に甘々な擁護ですね。

 「科学者は単純な二分法では答えない」と言ってる先から二分法で否定しているという論理的矛盾を、私は指摘したわけですが、この方は、「科学者だったらそれも許されるのさ~」と強弁しているわけです。

科学だからこそ、このような論理的矛盾には厳格であるべきではないか?それができない科学に価値はあるのか?と、私は考えます。

 論理矛盾? あら、ロンリのお話だったんだ。

 えーと、ロンリの言葉を使って言うなら、私は「『科学者は単純な二分法では答えない』を全称命題として扱うのは不適切です」って言ったんです。それに対して「論理矛盾を指摘したんです」ってんじゃ、答えになってません。
 だから、なぜ全称命題だと考えるべきのかについて説明いただければいいんじゃないでしょうか。

 あと、菊池さんの「水からの伝言」その他に対する評価が本当に「単純な二分法」に該当するのか、という点も異論があるのですが、それはまあ、上のポイントが明確になったら、その後で考えればいいや。


 ところでコレは独り言ですが、科学の枠に入らないものが「科学を超え」ているかどうかを評価するコトって、どんなモノサシを使えばできるんでしょうねえ。
 私に思いつく限りでは・・・

(1)科学そのものではなく、科学の知見を活用する場面で、科学以外の物差しを用いて評価するか、
(2)そもそも共通のモノサシで評価することはせず、科学を超えているとひたすら信じるか、
(3)ただ単に科学の枠組みから逸脱していることを「超えている」と表現する

 ことなら、まあできるんでしょうけれど。

<2011/01/26 追記>

 また回答を頂いた・・・んだけど、

 因習科学信奉者への回答③

 えーと(^-^;
 最初のエントリに書かれていない、

その結論として言えるのは、「彼らの批判にはなんら明確な根拠がない」。
彼らは科学者を自称していながら、「ニセ科学」批判においては科学的知識を用いず、全くの信念で批判を述べているということです。

みたいなのを、

もっとも根幹的な主張

とか言っちゃってる時点で、もういいかな、って思いました。もういいよね(^-^;

 なんというか、よく知らないんなら知っている範囲内で書けることだけを書くか、調べてから書けばいいのに。ってのが、拝見したすべてのエントリに共通する私の感想です。

 多分かの人の主張に説得力を感じる人もいるんだろうけれど、どういうところに感じるのか、だれかどこかで書いてくんないかなあ。そういう文章、あまり見たことがないんです。

 やりとりの流れをメタ的に解析してみると典型的な何かが出てきそうだけど、まあ気が向いたら。

<追記終わり>

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「ニセ科学批判」批判について」カテゴリの記事

コメント

ことばの使い方にあまり敏感ではないひとが、詩人、と云う属性を称するのは、悪意に取ると詐称、善意に取ってもせいぜい勘違いなんじゃないかなぁ、とか感じました。

投稿: pooh | 2011年1月22日 (土) 07時24分

 poohさん、こんにちは。

 私の感覚では、詩人たらんとすることって、周囲に向かって「詩人」を名乗ったり詩を公表したりする以前に、ある種の内向的な覚悟が必要なこと、なんですよね。
 その覚悟をお持ちの上で名乗っておられるんであれば、能力の有無は別にして純粋にすごいなあ、とは思います(^-^;

投稿: ハブハン | 2011年1月22日 (土) 21時22分

投稿: 名もなき詩人で地球市民のうるとららっきー | 2011年1月26日 (水) 11時24分

投稿: 名もなき詩人で地球市民のうるとららっきー | 2011年2月14日 (月) 12時57分

投稿: 名もなき詩人で地球市民のうるとららっきー | 2011年2月25日 (金) 17時16分

こいつmixiで有名の荒らしで、ただのチンカスやないか。

投稿: アイーンシュタイン志村 | 2011年3月 9日 (水) 00時17分

アイーンシュタイン志村さん、こんにちは。

 いいコちゃんぶるつもりはありませんが(^-^; 悪口だけのコメントは避けて、当エントリ、もしくは先方のエントリに関連する内容を書いていただけるとありがたいです。

 もしかしたら「mixiで有名な荒らし」という情報になにかしらの公益性、もしくは当エントリとの関連性があるのかもしれませんが、私はmixiとかかわりを持ったことがないので、うまく判断できません。すみません。

投稿: ハブハン | 2011年3月13日 (日) 20時14分

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