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読書感想_リスクにあなたは騙される ー「恐怖」を操る論理

 本を読みました。たまった本を連休で消化、というのが最近パターン化しつつあります(^-^;

リスクにあなたは騙される − 「恐怖」を操る論理
(原題: RISK The Science and Politics of Fear)

  翻訳のせいか、原文がそうなのか、全体に文章がかたく、回りくどく、ややわかりづらいです(^-^;
 ただ、それを差し引いて余りある示唆と教訓に富んでいて、とっても参考になりました。

 ちょっと前(2009年発行)の本ですので、ネット上の書評も充実しています(邦題で検索してみてください)。
 私は私の感想を。

 まず各章をカンタンにご紹介。本書はかなり多岐に渡る内容を含んでいますので、要約するとニュアンスが変わるかも知れませんし、重要と感じるポイントは人それぞれだと思います。以下は、あくまでも私なりのまとめです。

プロローグ
 911テロによって多くの人が飛行機に乗るのをやめ、車を利用した。それによって1595人の人が交通事故によって死亡したと算定された。

 亡くなった人の家族以外は、ほとんど誰もこの事実に気づかなかった。その家族さえ、何が起きていたかを本当に理解したわけではなかった。夫や妻、父、母、子供を亡くしたのは、現代社会で生活する上での残念な犠牲として受け入れられているありきたりの交通事故のせいだと考え、今もそう考えている。
 そうではなかった。彼らの愛する者たちを奪ったのは恐怖だっだ。

第1章 リスク社会

 私たちは歴史上最も健康で、最も裕福で、最も長生きな人間である。そして、私たちはますます怖がるようになりつつある。これは現代の大きなパラドックスの一つである。
(中略)
 すべての人の脳は一つではなく二つの思考システムを有している。心理学者はそれらをシステム・ワンとシステム・ツーと呼んだ。
(中略)
 システム・ツーが理性である。それはゆっくり働く。それは証拠を調べる。それは計算を行ない熟考する。理性が決定を下すとき、言葉にして説明することは容易である。
 システム・ワンの感情はまったく異なる。理性とは違って意識的に認識することなく働き、稲妻と同じくらい速い。感情は、予感や直感として、あるいは不安や心配、恐れなどの情緒として経験する即座の判断の源泉である。感情から生まれる決定は言葉で説明することが難しい。あるいは、不可能でさえある。なぜそのように感じるかはわからない。ただそう感じるだけである。

 システム・ワンは単純な経験則によって瞬時に判断を下せる。しかし、経験則による判断は不合理な結論を生み出すこともある。
 システム・ワンは(例えばニュースで見たなど)「簡単に思い出せる」という理由でのみ、リスクを大きいと判断してしまう(実例規則)。

<感想>
 「システム・ワン」「システム・ツー」という表現ははじめて聞きましたが、理性と感情、という対比はとても分かりやすいものですね。分りやすすぎて、心理学の定義として正確に理解できているかどうかはアヤシイですがw

 私たちが自分の目で見、耳で聞き、経験したこと、そしてせいぜい、村単位のコミュニティが世界のすべてであった時代には、システム・ワンがかなり有効に機能するだろう、というのは、私自身にそんな経験がないとは言え、わりかし容易に想像できることです。そして、現代の距離と時間を無視した情報伝達が当たり前になっている社会の中で、齟齬をきたすことが多い、ということも。

第2章 二つの心について

 正確に物事を判断するのには「頭」(システム・ワンツー)(2012/04/03修正しました)を使うのが最善だが、限界もある。教育によって様々なこと(論理や数学、統計)を学ばなければ正しい答えには辿りつけないし、「頭」は非常にゆっくり動く。
 一方「腹」は、「背の高い草むらで何かが動いている」ときに、なにをすべきかを即座に判断できる。

 「頭」は「腹」がどうして判断を下したのかを知ることができず、「腹」の判断に対する「頭」の理屈付けは、しばしば全く間違ったものとなる。

 部屋に人を集めて、車のコマーシャルを見せて、その車についてどう思うかと聞けば、明快な答を得るだろう。「その車は好きじゃない」と一人の男性が答えたとする。よくわかりました。でも、どうしてですか? その男性は眉間にしわを寄せる。「ウーン、前の部分のスタイルが見苦しい。それにもっと強力なエンジンが欲しい」。これは、良い洞察、つまり、自社製品をデザインして市場にだそうとする会社が使うのにぴったりのもののように見える。しかしそうではない。この男性の即座の判断ー「私はこの車が好きじゃない」ーは「腹」から出てきた。しかし、インタビューアーは「頭」に話しかけている。そして「頭」は、どうして「腹」がその車を好まないかについての手がかりを持っていない。そこで「頭」は理屈をつける。「頭」は「腹」の出した結論に着目し、もっともらしいだけでなく、間違っている可能性が非常に高い説明をでっち上げる。

 「腹」の判断は「頭」によって調整されるが、「頭」の働きは、驚くほどいい加減か、あるいは機能しないことがある。

 数多くの研究によって、天候が株式市場での損得と強く相関していることさえわかっている。

<感想>
 私たちは何かを判断するときに、理性がより大きな役割を果たしていると考えがちです。思考を言語化するプロセスの中で、そういった誤解が生まれるのかな?
 ときには(あるいはしばしば)理性は感情の言い訳にすぎないのかも知れない、と考えることも必要なのかも知れませんね。感情の言い訳ではないカタチで理性を発揮するために。

第3章 石器時代が情報時代に出会う

 正しい答えが分からないものを推測する際、「腹」は最も手近にある経験(記憶)に影響される(係留規則)。
 事前に「ガンディーは亡くなったとき九歳より上か下か?」という(バカげた)質問を受けた被験者グループは、次の質問、「ガンディーは亡くなったとき何歳だったか?」に対する回答が、平均50歳だった。
 事前に「百四十歳より上か下か?」と質問したときは、平均六七歳だった。

 「腹」は実例を思い出すのが容易なほど、想像するのが容易なほど、それをより一般的(普遍的)とみなす。

 私たちの脳は1万年前の人間と変わらないが、社会は、特に通信方法において激変した。ラジオが登場したのが1世紀前、テレビは70年前、衛星通信は50年前、インターネットが一般に普及し始めたのはわずか20年前である。このような状況にあって、「係留規則」「典型的なものに対する規則」が役に立たないケースが増えている。「実例規則」にいたっては、私たちを狂気に駆り立てる力を秘めている。

 外来のウイルスを恐れるべきか? テロリストは? インターネット上で子供に忍び寄る小児性愛者は? 数が増えつつある心配事の長いリストに載っているその他の項目のどれかは? 地球上の人口は七〇億に達しようとしている。まったくの数の力によって、どの日を取っても、これらのリスクの一部あるいはすべてによって、人が傷ついたり殺されたりする可能性は十分ある。ときには、特に悲惨な出来事が起こり、多くの人が亡くなるだろう。そして、即座に送られる大量の情報によって、私たち全員がそのことを知るだろう。では、そういった悲惨な出来事を恐れるべきか? 不可避的に「腹」は「実例規則」を用いてこの問いに答えようとする。答は明らかだろう。そうすべきだ。恐れろである。

第4章 感情にまさるものはない

 特定の性質を持っていると判断されると、実際のリスクの大きさにかかわらず、リスク度の評価が上がる。実際に発生した時の規模の大きさ、本人の行為の結果として発生するのか、無関係に発生するのか、みんなが一律に被害をうけるのか、一部の人だけが受けるのか、など。(←コレについては、「ポール スロヴィック」で検索すると、詳しい説明がネットにあります)

 慣れによって、リスクに対するおそれは薄まっていく。慣れは大抵の場合有効な機能だが、時にはリスクを過小評価することにもつながる。
 運転中の居眠りや飲酒運転、タバコなどは、過去にナニもなかったことが、「腹」の判断を誤らせる。専門家からの警告は「頭」に働きかけるが、「頭」は感情をコントロールしない。

 引き起こされるリスクが大きいと考えると、利益は小さく見積もられる。逆に利益が大きいと考えると、リスクは小さく見積もられる。コレは「腹」が先駆けて判断し、「頭」がそのための理屈を後付で考えるためである。リスク・利益の見積もりは「頭」でなされるが、その見積もりは先行で結論を出している「腹」に引っ張られ、本来相関がないはずの利益とリスクの間に、シーソーのように逆相関が現れる(良い・悪い規則)。

 リスクや悲劇への判断の方向付けとして、しばしば正義が非常に大きな役割を果たす。
 自然によるリスクは人工のリスクに比べて脅威がずっと小さく感じられる。

 専門家が事実を明るみに出すことで、リスクによる不安を和らげること、過度な楽観を改めさせることができると考えるのは間違っている。

第5章 数に関する話
 人は数字よりも話に動かされる。

 一人の死が悲惨なものであるならば、一〇〇〇人の死は一〇〇〇倍悲惨であるはずだが、感情はそういう具合には働かない。一九八〇年代初めの数年間、犠牲者の数は着実に増えていたにもかかわらず、エイズに関する報道はまばらだった。その状況は一九八五年の七月に変わった。このとき、米国で発表されるエイズに関する新聞記事の数は、五〇〇パーセントに急増した。すべてを変えた出来事は、エイズであることをロック・ハドソンが公表したことだった。馴染みのある彼の顔はどんな統計値もできないことをやってのけた。「一人の人間の死は悲劇だが、何百万人の死は統計値だ」と死の専門家ヨシフ・スターリンは言った。

<感想>
 赤の他人よりも家族が大事、というのは、ありふれた(そしてたぶん適切な)感情だと思いますが、情報として受け取る「1000人の死」は、「赤の他人の死」、ともまた違ったものかも。どれだけ興味を抱くか、感情移入するか、というのは、やっぱり個人の顔が見えるかどうか、そして自分がどれだけ対象となるコミュニティへの所属を強く感じているか、なんでしょう。

第6章 群れは危険を察知する

 人間は社会性動物であり、他人の考えることに(時にはそれが明らかな間違いだったとしても)影響される。
 問題が重要だと、同調を増加させる。答えの得られにくい問題では同調は更に上昇し、かつ自分の答えの正確さをより強く確信するようになる。

 いったん見解を形成すると、その見解を肯定する情報を受け入れ、否定する情報を懐疑的に見るか、拒否・無視するようになる(確証バイアス)。
 人は自分が正しいことを確かめたいとき、整合する情報を多く集めようとし、整合しない情報の存在を確かめようとはしない。

 同じ見解を持った人間が集合し情報交換すると、全体として平均的な見解ではなく、より極端な見解を持つ方向に進む。これは自分の知らない(自分の考えを裏付ける)情報が得られること、自分が最も極端な(より「正しい」)考えを持った人間ではないということに気づくこと、などによる。

 メディアは不安の波を起こすこと、それを拡大すること、そして維持する上で中心的な役割を果たしている。

 リスクに対する見解は、共同体が持つ文化に大きく影響される。アメリカで問題視されるリスクが、他の国でも同じように問題視されるとは限らない。

第7章 恐怖株式会社

 様々なビジネス、政治団体、NGO、慈善団体にとって、不安を利用する(掻き立てる)ことは目的を達成する上で有効な手段である。
 彼らはリスクの深刻さを人びとの「腹」に訴えかけ、自分たちこそがそれを解決できるとアピールする。もしくは自分たちの言うとおりにしないとリスクは解消しないと訴える。
 そしてよりショッキングな情報を、広く伝達する上で、メディアが欠かせない役割を果たしている。

第8章 活字にするのにふさわしい恐怖
 稀であること、感情に訴えかけることを基準に取捨選択されるメディアの情報は、しばしば非常に偏った印象や間違った認識を読者に与える。
 メディアがこのような情報を流す理由は複数考えられる。
1.利益(売上・視聴率を伸ばすこと)
2.人手不足により、企業や団体の煽動的なプレスリリースに対するフィルタが十分に機能しないこと
3.メディアを形成しているのもやはりヒトであり、自分のココロ(「腹」)が動かされるものを選択すること
4.世間ががそれを望むこと

第9章 犯罪と認識

 メディアによるニュースの大部分を犯罪が占め、その割合が増加している。メディアは劇的なニュースほど、大きな関心を払う。
 犯罪自体の増加又は減少を、メディアによるニュースの増減から捉えることはできない。
 メディアは個々の犯罪を伝えるが、犯罪の全体像を伝えることはほとんど無い。

 そういうわけで、メディアが提供する犯罪のイメージは逆さまである。飛び抜けて最もありふれた犯罪が無視され、最も稀な犯罪が飛び抜けて最も大きな関心を獲得している。ギャラップ世論調査によって一貫して見出されているところでは、実際には毎年殺害される米国人はわずか0.0056パーセントだけという事実にもかかわらず、米国人の約二〇%が「頻繁に」あるいは「ときどき」殺害されることを心配している。平均的な米国人は殺人に比べて三倍車の衝突事故で死亡する可能性がある。そして、これが、殺人の発生率が西側諸国で飛び抜けて最も高い国の話だということを思い出して欲しい。
(中略)
メディアは、いつも新奇なものや突飛なものを追い求め「人が犬を噛む」的な報道をするといってよく非難されるが、そういった非難に対しては、もちろん、多くの原因が存在する。人間は異常なものに関心を払うようにできており、記者も人間である。大評判を取ることや売り上げも役割を果たしている。しかし、感情の大きさが、メディアによる犯罪の歪んだ描写のより決定的な原因である。

 人々の危機的な認識にもかかわらず、犯罪の発生率は減少している。古代の人類や外部から孤立した部族における暴力行為の発生水準は非常に高い。

<感想>
 犯罪に関しては、リスク認知の問題とはやや異なるモノを含んでいるかも知れませんね。私たちはリスクが小さいことを認識しても、犯罪を許したくない、という気持ちをもつかも知れません。
 ゲーム理論かなんかの本で、他人から不利益を被ったヒトは、さらなる不利益を被ってでも相手に不利益を与えようとする、みたいな話を読んだ記憶があります。多分根っこにある感情は同じものでしょうね。

第10章 恐怖の化学

 「現代人はあらゆる化学物質で汚染されている」という幻想。

 「我々の体は多くの毒性化学物質の保管容器になっている」という言葉で、グリーンピースの報告書は始まる。「今や地球上のすべての人間の体が汚染されていると考えられており、我々の体は現在最大二〇〇種類の合成化学物質を含んでいる可能性がある」

 化学物質への暴露は、癌や生殖に関わる問題と関連付けられてきた。
 死因に占める癌の割合の上昇は、他の疾病が減少したことによるものである。
 癌は年齢(高齢)が主な危険因子。
 天然の食物は、天然の発癌性物質で満ちている。
 喫煙、飲酒、食事、肥満、運動は、すべての癌のおよそ六五パーセントの原因とされている。

 「男性の二人に一人」あるいはレイチェル・カーソンの有名な「四人に一人」のような一生のあいだに癌になる確率は、老化の役割を無視し、私たちの寿命が着実に伸びていることを考慮に入れていない。こういった確率がいかに人を惑わすものであるかを理解するために考えてみて欲しいのは、すべての人が一〇〇歳まで生きるとしたら、一生のあいだに癌になる確率はおそらくほぼ一〇〇パーセントまで上がるだろうということである。ショックを受けた口ぶりで「癌がほぼすべての人を襲う」と言うだろうか? たぶん言わないだろう。そのことを祝福すべきと考えるのではないかと思う。逆に、新しい伝染病によって私たちがすべて三五歳で死ぬことに決まったとしたら、一生のあいだに癌になる確率は目を見張るほど下がるだろうが、誰も小躍りして喜ばないだろう。
(中略)
 「頭」は理解する。しかし「腹」は統計を理解しない。「腹」にわかるのは次のようなことだけだ。長椅子に寝そべってテレビを見るほうがトレッドミルの上で汗をかくよりずっと楽しい。タバコは心地よい気分にさせ、これまでどんな害も与えていない。マクドナルドの看板の黄金のアーチは、子供時代の楽しい思い出と例の赤毛のピエロを呼び起こす。だから「腹」は判断する。「この中のどれにも心配することはない。くつろいでもう少しテレビを見るといい」
 そして、テレビを見ていると、ニュースで、発癌性の化学物質が一般人の血液中に検出されたと報道される。我々は汚染されている。だから「腹」は言う。「さあ、恐ろしいことだ。細心の注意を払え」

第11章 テロに脅えて

 政治的に利用された911テロ
 テロによる死亡のリスクはゼロと見なせるほど小さい
 大量破壊兵器を作り、所持し、使用することの困難さ
 テロ対策費用の増加によって、他の何が犠牲にされたのか

第12章 結論−今ほど良い時代はない

 私たちは未来に不安を覚え、今が悪い方向に向かっていると考えがちであるが、「後知恵バイアス」と呼ばれるものによる錯覚である。
 私たちは過去に起きたことを、それは起きやすかったのだと感じ、更に予測可能だったと感じる。過去は確定されていて、確かなものに見える。未来は不確定で、不安定なものに見える。同様の不安は、過去のそれぞれの時代にもそれぞれに存在していた。

 真の脅威(核兵器のような脅威)は存在するが、「世界のほとんどの人にとって、生きるのに今ほどよい時代はなかった」ということも、理解する必要がある。

<全体を通しての感想>

 この本自体がリスクについて書かれているものだから当然なんですが、リスクの大きさを主眼においた解説が前面に出されています。そのコトに、感覚的に違和感を感じる人もいるでしょう。

 例えば、事故や自然災害が殺人よりも余程大きいリスクだったとして、「事故で死んでもしょうがないが、誰かに殺されたくはない」と感じ、忌避すること自体は、果たして間違いと言えるのかどうか、リスクの総計を最小限にすることを追求することが正しいのかどうか。
 私たちが過度な関心を払うことが、そのコトに関するリスクを押し下げ、デミニミス・リスク(ゼロと見なせるほど小さいリスク)の状態が保たれているのではないか。あるいは、関連する他の事柄に関するリスクを低減しているというコトはないか。

 ですがそれは、著者の言いたいことではまったくなくて、最終的に社会の中でリスクをどのように扱うにしても、そこではリスクに対する正しい認識が基礎となっているべきである、そして現状では、特に一般の人びとの意識において、そうなっていない点が多々ある、というコトでしょう。
 リスクに対する歪んだ認識を拡大させるような仕組みがあり、意図的かそうでないか、善意か悪意かにかかわらず、さまざまな組織に、様々な場面で利用されているんでよすね。そして現時点ではそれは(残念ながら)とても有効に機能しているようです。

 私たちのような一般人は、世の中にある膨大な情報を受けてリスクを正しく見積もるのは難しいかも知れませんけど、こういった本を読むことで、流されるままに判断し行動することを、ちょっとでも減らせるとイイなあ、と思いました。不安を消すことは無理でも、不安の生まれる理由と、不安を煽る手口を知っていれば、不安をこらえて理性に耳を傾ける勇気を、ちょっとだけ強く持てるかも知れません。


 リスクの大きさをきちんと認識した上で、なおそれを選択する、というコトはありえますよね。例えば、死のリスクが劇的に増えるにもかかわらず、今の社会を捨て、自然の中で自然のままに生きる暮らしに価値を見出すことだってあるわけです(私は社会としてそういう方向に行ってほしくはないけれど)。
 しかし世の中には、自然の中で自然のままに暮らすことが、今よりも安全、安心、健康な生活である、という非現実的な考え方が一部に存在しています。そしてそれに、ニセ科学が重大な役割を果たしている場合があります。
 一部のニセ科学はリスクの(あるいはベネフィットの)認識を大きく歪めるものである、というのは、ニセ科学批判においても大きなポイントの一つ、ですね。

 あ、もちろん、「ニセ科学が社会に蔓延することのリスク」の大きさが正しく認識できているかどうか、についても、常に自省は必要ですけど(^-^;

<蛇足>
 昔、ホメオパシー団体に認定されたホメオパスによる、乳児へのビタミンK2シロップ不投与、そして乳児の死亡、という事件がありました。
 その時の各ホメオパシー団体の反応は「ホメオパシーのせいじゃない」「一部の個人、団体の問題」「親の選択ではないか」などなど、とにかくもう責任、どころか関係がないことを主張するのに必死、そのためなら牽強付会や矛盾もなんのその、といった印象でした。
 なんでそんな言い方になってしまうのか、こちらの記事で推測してみたりもしましたが、今回この本を読んでみて、ちょっと腑に落ちちゃった。

 彼ら(彼女ら)が一番心配していたのは、人びとがホメオパシーに対する不安を煽ったり、「ホメオパシーバッシング」に使えるような強力な「物語」が生まれること、だったのかな。
 彼ら自身がもっとも強力だと感じ、ガッツリ利用している「武器」を、「敵」が手に入れるコトに恐怖を感じる、というのは、事実かどうかはわかりませんが、とても納得できる推測ですね。
 もちろん、ダークサイドに堕ちたヒトは(私の知る限り)いませんでしたけど。

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