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なにかを選択することは、他のなにかを選択しないということ

 ケータイをiPhoneに換えてからもう1年以上。それまで使っていた普通のケータイと比べておー、ってところもあれば、んー、ってところもあるけれど、おおむね満足しています。
 iPhone(スマホ)の面白さって、やっぱアプリの面白さかな。位置情報だとか、加速度センサだとか、ハードが備えているユニークな機能をいかす、ユニークなアプリがいっぱいあって、買ったばかりの時にはいろいろなアプリを試して楽しんでいました。

 今は主にナビ(※1)やブラウザ、リーダーを使うことが多いのですが、その中のひとつに産経新聞のアプリがあります。iPhone版は無料で閲覧できます(iPad版は有料)。
 んで、産経新聞の2010年12月19日付けで面白い?コラムが載っていました。

 画家(日本芸術院会員)の絹谷幸二氏のコラム(※2)なんですが、プラセボ効果のことを初めて聞いたヒトはこんな印象を持つのかも知れないなあ、という内容なので、ちょっとご紹介。

 っと、1年以上前のコラムをなんで今さら紹介するかって言うと、メモっといて忘れてたのを発見したからですw

『 アートな匙加減 』     2010.12.19 

画家(日本芸術院会員)絹谷幸二 
「過程を見つめ直すとき」

 医学用語で「プラシーボ」という言葉がある。これは偽薬を用いて患者を治療するという夢のような話で、何やらトリックアートの世界と共通するところがあるようだ。
 たとえば名医から「この薬は大変よくきく薬で、ぜひ飲んでください」と渡された薬が単なる「うどん粉」であっても、患者によっては症状が改善してしまうケースがある、というのだ

 なんとなく、「こんな面白い話があるんですよ」的におしゃべりしているお医者さんの姿が目に浮かびます。専門家には雑談でも、知らない人が聞くと一種の驚きをもって受け入れられてしまう場合って、多そうですね。
 なお「偽薬を用いて患者を治療する」というコトは、普通はしないと思います。
 一部の特殊なケース(※3)を除いて、偽薬を使う理由はないんじゃないかな。だってホンモノを使えばプラセボ効果に加えて実質的効果を上乗せできるんだから。
 インフォームドコンセントの考え方にも反すると思います(※4)。

 情報もとのヒトはもっと慎重な言い方をしたのかも。そうだったとしても、受け取る側はまあこう受け取ってしまう、というコトですかねえ。

 古来、病は気からというが、人間には自然に自分自身を治癒する能力があり、暗示によって、この治癒力が働き出す、ということなのかもしれない。近代医学では推し量れない、生命の神秘が目に見えないところで働いているのだろうか。

 病は気から、というのは一面としてあるのでしょうけれど、プラセボ効果って、別に手付かずの隠し財産、みたいなモノではないです。認知されるようになっ たのは比較的最近としても、シャーマンがウンタラムニャムニャお祈りをしていた時代からあったモノで、意識的にしろ無意識的にしろ活用されてきたモノ だろうと思います。
 で、その時代は今よりもはるかに寿命が短かかったたわけで。
 プラセボ効果が今後医療として利用されるようなことになったとしても、「生命の神秘」という表現に値する劇的な効果、「今まで直らなかった不治の病が全快!」「平均寿命が160歳に!」みたいな期待はちょっと持てないかなあ。

 ところで、プラセボ効果の話をはじめて聞いたヒトは偽薬『だから』得られる効果だと思いがちですけど、そうではなくて偽薬『でも』得られる効果、ですよね(※5)。
 臨床の現場でも、プラセボ効果が通常の医療で働かない、と考える理由はありません(※6)(効果の大きさが単純な総和になるかどうかは別として)。

 このような現象は今日の新しい医業の研究課題となり、ドイツあたりではまじめにその効用が研究されているという。なにやら呪術めいても聞こえるのだが、今日の行き詰まった社会状況を見ていると、案外こんなところに現状を打開する突破口があるのではないかとも思われる。

 通常の医療行為を行なう中で、より大きなプラセボ効果が得られないかどうか研究しましょう、という方向はアリなのかも。
 ただ、上にも書いたようにインフォームドコンセントとどう兼ね合わせるのかは、難しい問題だと思います。私はインフォームドコンセントの十全な実施のほうが大事だと思うので。
 活用するにしても、やっぱり通常の医療行為に上乗せして使うのが正しい道でしょう。プラセボ効果と医療は、別に競合するものではありませんし。

 喧騒の都会を離れ、南海で一人自然を心おきなく描いた田中一村(1908~77年)の作品や、アフリカの原始美術に共鳴したピカソ(1881~1973 年)など、太古の自然にかえったところにこそ真実があり、われわれの再出発点もあるに違いない。現代人が見失った、はるか彼方の大過去にこそ、本当の新し い未来が見いだせるのではなかろうか。
 というのも、近代では、政治、経済、医学などあらゆる分野で常にエンドポイントでの優劣が重きをなし、GDP(国内総生産)などの数字を追い求める結果、そこに至る過程は度外視される場合が多い。
 医療の現場でも「その人を死から救えたか否か」を判断の基準とするあまり、その人の死に至る過程は顧みられず、薬漬けになって苦しんだり、また、” チューブ人間”となって最終章を台無しにする傾向も見られる。死を押し止めることも大事だが、その過程で、真の幸福がもたらされたか、満足と喜びがあった か、貧しくとも美しかったか・・・などの視点はなくてはならないものだろう。

 うーん、QOL(生活の質)を重視する考え方は、かなり浸透してきていて、「死」を基準とした医療、という見方はいささか古いような気がします。今の取り組みではまったく不十分だ、といった指摘なのかも知れませんけど。

 もちろん、QOLを高く保ちながら病気の治療が出来て回復するならそれにこしたことはありません。でも世の中そんなハッピーな病気ばっかりじゃなくて、病状によっては死か苦しみか、どちらかを選択せざるを得ない場面だってあります。
 苦渋の選択を行い、苦しみながらも病気と全力で闘っているヒトがこの文章を見たらツラいんじゃないかなあ。

 技術の進歩、発展によって”最終点”の数字は果てしなくつり上がっていく。しかし、そうした数字ばかりを追い求めていると、われわれの本質や自然から、少しずつ遠のいていってしまう。人の営みというものは、過程の中にこそあるのではないだろうか。
 芸術文化の華咲くフランスのサルコジ大統領は、このことに早くも気づいているようで、アメリカ型のGDPの追求には限界があることを悟り、生活の質や満足度を押し上げる方向に転換させようとしているとも聞く。
 プラシーボのエピソードが指し示すように、私たちは結果を追い求めすぎて、本来自分たちが持っている能力、自分たちの本質を見失っている可能性がある。 結果をいったんは脇に置き、そこに至る過程を見つめて、自分の本質や自然な姿を再確認すべきだろう。無理に収穫量を増やせば、畑はやせ細るものだ。気持ち を前向きに地味を肥やしていく。そこからは、医療や芸術、農業、そして国を支えていく人材と、多くの価値ある作物が育つに違いないのだ。

 「プラシーボのエピソード」って、明らかに結果を求めているような気が。「多くの価値ある作物が育つに違いないのだ」も、結果じゃありません? ホントに過程だけを重要視するなら、「価値ある作物」なんか求めちゃいけないんじゃないかなあ。
 「過程」と「結果」ではなくて、ある「結果」と別の「結果」のどちらを選択するか(どちらが良いか)、というお話でしょう、きっと。
 もしくは「結果を数字で表すときに、適切な指標が用いられていない」みたいな意味合いかな。

 ともあれ、社会の目的・目標としていったいナニをすえるのか、同じ結果を得るにしてもどうアプローチするかにはいろいろな主張があっておかしくないですよね。
 だから、病気や死と向き合いながら、30歳前後で死ぬのがいいんだ、というヒトもいるのでしょう(結果を求めなかったら、そうなりますよね)。
 でも、自然な暮らしは多産多死の世界でもあります。より多くの子供が生まれ、大半のヒトが死に、一部のヒトが成人になって子孫を残す世界です。自分の死 はもちろん、他人の死、友人の死、恋人の死、家族の死、自分の子供の死を受け入れて初めて成り立つ価値観。
 私はその価値観にはちょっと 賛同できそうにありません。
 そしてそんな世界からほんとうに「医療や芸術、農業、そして国を支えていく人材と、多くの価値ある作物が育つ」かどうかについても、判断を保留しておきます(^-^;

 そうではなくて、「プラセボ効果を活用すれば今以上に健康に長生きできるんだ」というハナシなら、それはただの勘違いというコトで(^-^;

無理に収穫量を増やせば、畑はやせ細るものだ。

 今あるリスクを問題視するのはいいです(ナニを問題視しているのかはよく分かんないけど)。
 じゃあ今のリスクを排除する代わりにどんなリスクを受け入れるべきだ、というトコロまで明言するべきだと思います。
 「収穫量を増やせば畑はやせ細る」というのが、まあ事実としておいて、じゃあ「畑を太らせる」代償として、収穫量を減らして餓死するべきなのか、単位面積あたりの収穫量を減らす代わりに耕地面積を増やして森をつぶすべきなのか、どうするべきでしょう。
 こっちのリスクとあっちのベネフィットを比べたら、そりゃ「隣の芝生は青い」にしかなりっこないわけで、ベネフィットとベネフィット、リスクとリスクを比較するべきじゃないかなあ。

 なにかを選択することは、多くの場合、他の競合する選択肢を放棄することです。
 ひとつのベネフィットを享受することは、それに付随するリスクを受け入れることです。
 なにかに賛成するにしても、反対するにしても、そういう想定をしておかないと、得られたものに満足はできないだろうし、リスクをともなう選択を受け入れることはできないんじゃないかな。


<注釈>

※1
 近くのお店を検索してくれるアプリがもー便利すぎて(o^-^o)

※2
 今はもうコラムの連載は終了しています。

※3
 必要の無い、むしろ副作用が懸念される治療を、患者自身が強く要求したときに、家族と相談の上代替として処方する場合、とか。

※4
 ところで、インフォームドコンセントがあらゆるヒトにとって最良の方法かどうかはわかんないです。自分自身で方針を決定できるほうがいいに決まってる!  というヒトもいそうだし、重大な病気を告知されることによって生きる気力そのものをなくしてしまうヒトもいそう。
 私は自分で選択したい派ですが、詳細な説明を受け、選択肢を提示されても、 そこから自分の希望に沿った治療を正確に冷静に選択できるかどうかというと、あんまし自信はありません(^-^;
 健康なうちに、大枠での意思表明をしておける制度があったりするといいのかも。まあ、健康なときの価値観を病気になったときに維持できるとも限らないので、難しいけど。

※5
 プラセボ=偽薬、ですから、本当は「プラセボ効果」ではなく、別の言葉を使ったほうがいいのかもしれませんけど、じゃあどんな言葉だったらぱっと伝わるかってのは難しいですね。いくつか代替候補を見かけたことはありますが、よっぽど丁寧に説明しないとプラセボ効果とは別のものとして捉えられちゃいそう。

※6
 患者が不信感を持っていたりすると「医療」ではプラセボ効果が得られない場合もあるのかな。
 代替医療などが医療不信をあおるのは論外としても、病院を転々と渡り歩くうちに不信感が募ってますます治りにくく・・・みたいなことがあると、残念ですね。

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