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違和感

YOMIURI ONLINEでこんな記事を見つけました。
 
 東日本大震災の津波に耐えながら、海水で枯死した岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」の幹部分(約14メートル)の復元作業が、兵庫県たつの市で進んでいる。
 芯の部分をカーボンファイバー(炭素繊維)で強化した幹の表面に、防腐剤を施した樹皮を貼り付ける作業が22日、報道陣に公開された=写真、加藤学撮影=。枯死した一本松は復興のシンボルとして残すため、根元、幹、枝葉に分割され、全国各地で復元に向けた作業が続いている。復元された幹は28日に陸前高田市に運ばれ、3月2日に現地で根元と接合される。11日には枝葉の部分も据え付ける予定という。
 幹の復元を進める「カドコーポレーション」(たつの市)の倉谷泰成社長(39)は「住民の復興への活力につながれば」と話した。
(2013年2月23日10時54分  読売新聞)
 
 いろいろなところでニュースになっていますが、疑問の声を併せて伝える記事も多いようです。
 
J-CASTニュースより
 
  巨大津波に耐えた岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」が、1億5000万円をかけて保存工事が行われることになり、ネット上で論議になっている。
 
(中略)
 
「石碑やレリーフなどで代用できる」
保存は本当に必要?
   その姿は、市民に勇気を与え、復興のシンボルともされた。ところが、地震による地盤沈下で、海水が土壌にしみ込んで塩分が多すぎる状態となり、一本松は徐々に衰弱が進んで枯死と診断された。
   これに対し、陸前高田市は、一本松の保存に乗り出すことを決め、2012年9月12日から工事に着手することになった。作業では、高さが27メートルもある一本松を根元から切り倒し、幹を5分割して、その芯をくり抜く。そして、防腐処理をしたうえで、金属製の心棒を幹に通してモニュメントにする。震災2周年の節目になる13年3月11日には、元の場所でお披露目したい考えだ。
 
(中略)
 
   とはいえ、ネット上では、被災者が未だに避難生活を続けている中で、一本松の保存に多額のお金を投じることに疑問の声が多い。
   「さすがに高すぎだろ…」「もっと他に金をかけるとこがあるのでは?」といったものや、石碑やレリーフなどで代用できるのではないかという意見も多かった。また、一本松の接ぎ木で苗が育てられていることから、こうした試みで十分ではとの声もあった。もっとも、「観光のシンボルにして町興ししようとしてるんだろう」などと理解する向きはある。
 
 
 大津波の中、ゆいいつ残った「奇跡の一本松」。
 その姿に、たしかに慰めや勇気をもらったかたも大勢いたのではないでしょうか。
 けれど、このニュースには違和感を感じた人が多くいる。
 って言ってる私も違和感を感じたひとりなんですが、「なぜ違和感を感じたんだろう」っていうのを、ちょっと考えてみました。
 
 最初に「奇跡」と表現が使われたとき、そこには「生き残った」という意味が込められていたのだろうと思います。
 ところがその後、立ち枯れてしまったことが分かったときにその意味が若干変容してしまったようです。もちろん、あの津波に流されず残っただけでも凄いことで、それを何らかの形で保存し、伝えたいと思うこと自体はおかしくないでしょうし、それが人々に希望を与えるものであれば、「伝えよう」とする行為自体は十分有意義なものかと思います。
 でもそれなら、リンク先に書かれている通り、枯れた松をくりぬいて炭素繊維のパイプを入れたり、シリコーンで型取りしたり、樹皮を防腐処理して貼り付けたりしてまで、姿かたちを残す意味はあまり無いかも知れません(記念碑とかと同程度のコストでできるならともかく)。
 
 一方で、もともとの意味、つまり「奇跡」=「生き残ったこと」と捉えている人から見ると、枯れてしまったにもかかわらず姿だけを模倣する行為は欺瞞に写るんじゃないかな。
 「無意味」と感じるか、「欺瞞」と感じるか。どちらにしろ、ネガティブな意見が少なからず聞こえてくる理由は、「生前の松の姿を模倣する」という行為自体の意味がうまく共有できないところにありそうです。
 
 この違和感はたとえば、ペットが死んだときにクローンを作る剥製を作るなどという行為に感じる思いにほど近いものと感じました。
 
 亡くなったペットを偲ぶためならクローン・剥製である必要は無いし、ペットの生き返りを望むならクローン・剥製は、単なる代償行為でしかありません。
 私たちのペットに対する思いは、一緒に体験した様々な出来事、「過去」の思い出と結びついているものであって、外見に結びついているわけではないですよね。
 なのに姿形だけを切り取って、もう二度と思い出に変わることの無い見せかけの「今」を維持することになんの意味があるのか、と思ってしまうのです(クローンの場合、新しい思い出が積み重なっていくかも知れません。でもそれ、新しくペットを飼うのと同質ですよね)。
 
 亡くなったペットの写真を眺めたり、思い出話をすることには違和感を感じないのに、クローンを作ったり、剥製にしたりといった行為には違和感を感じる理由って、こんなトコロじゃないかと思います。
 ペットの剥製化は、ペットと過ごしたかけがえの無い思い出とはリンクしません。
 そして、枯れてしまった「奇跡の一本松」のサイボーグ化は、「奇跡」というキーワードとリンクしないんですよね。
 
 コレが例えば7万本の松林を復活させる何らかの活動と結びつけた形で、その象徴としてアピールされていれば、つまり別の意味付けがされていれば、感じる違和感はもっと小さかったのかも知れませんね。

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