長いけど、ただのネタです(^-^; ヒマをもてあましたときにどうぞ。
「安全じゃなくて安心」,良く聞くフレーズですよね。原発だとか,狂牛病だとかの問題に絡めて,時々耳にします。
安心を求める気持ちにどうやって答えるのかと言う,情報の発信側の問題としては考えるべきポイントかとおもいますが,安心を求めてホメオパシーに走っている人を見ると,ちょっと複雑な気分。
安心って安全の上に成り立つものだと思うのですけど「安心できさえすれば、危険でも構わない」までイッちゃってるような・・・ 多分「健康のためなら死んでもかまわない」ってのと同様なんでしょうけど。
相当ムチャやっても死なない社会で暮らしているから、でしょうかねえ。
普通に考えれば(ニセモノでない)科学であったり、宗教であったり、いくらでも安心を与えてくれるモノはあるように思えるのですが、多分それらでは満足できないココロの状態がある、というコトなのでしょう。
なんとなく想像はできるような気がします。常に限界(適用範囲)が存在し、結果を100%保証してくれない科学と、不幸を「試練」のひと言で済ませてしまって、戒律ばかり厳しくて現世利益をもたらしてくれない宗教(※1)。要するにイイとこどりしたいんですよね。
ニセ科学は、科学の効果も、宗教の安寧も得られない、いわばバチモン(byうさぎ林檎さん)ですが、それらが得られているような気分にはさせてくれる。
楽して夢見る、という意味では、宝くじや占い、ギャンブルの延長線にあるモノで、プラセボ効果が得られる分、幸福感は大きいのでしょう。
個人でハマっている分には「お幸せにね」で済む(※2)のですが、実際には社会に大きな悪影響をもたらしている、又はもたらす可能性があります。
ニセ科学みたいに害悪にならず、ある程度の幸福感をもたらしてくれるモノを作れないかどうか、考えてみました。言ってみれば現代版イワシの頭。
「ニセ科学がダメなら、イワシの頭を信じればいいじゃない」
実効が無いのはニセ科学もイワシの頭もおんなじなんだから、できないことは無い・・・かな?
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